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うたかた日記

流れていく日々の中で感じるよしなしごとを綴ります。

三島由紀夫の『鹿鳴館』

迎賓館赤坂離宮の見学帰り、「この、もやっとした感覚を上手く表現してくれている本があったような…」と思っていたのですが、ついに思い出しました!
三島由紀夫の『鹿鳴館』のラストシーンです。

三島の数ある戯曲の中でも、最高傑作といわれるこの作品。
何度も上演されており、映画やドラマにもなっていますよね。

物語の舞台は明治19年の天長節
鹿鳴館で大夜会が催された日、この一日に起こった、影山伯爵、影山伯爵夫人朝子、自由主義者の活動家、清原とその息子久雄、四人を中心にして繰り広げられる、愛憎が交錯する恋と政治と革命のドラマです。

物語は悲劇へと突き進み、ラストは影山伯爵と朝子夫人の丁々発止のやりとり、そしてダンスで幕を閉じます。

二人の台詞のやりとりを、一部抜粋します。

朝子:もう愛情とか人間とか仰いますな。そんな言葉は不潔です。あなたのお口から出るとけがらわしい。あなたは人間の感情からすっかり離れていらっしゃるときだけ、氷のように清潔なんです。そこへそのべたべたしたお手で、愛情だの人間らしい感情だのを持ち込んで下さいますな。本当にあなたらしくない。もう一度あなたらしくおなりになって、政治以外の心の問題なんぞにとらわれるのはよしに遊ばせ。清原さんの仰言るように、あなたは成功した政治家でいらっしゃる。何事も思いのままにおできになる。その上何をお求めになるんです。愛情ですって? 滑稽ではございませんか。心ですって? 可笑しくはございません? そんなものは権力を持たない人間が、後生大事にしているものですわ。乞食の子が大事にしている安い玩具まで、お欲しがりになることはありません。
影山:あなたは私を少しも理解しない。
朝子:理解しております。申しましょうか。あなたにとっては今夜名もない一人の若い者が死んで行っただけのことなんです。何事でもありません。革命や戦争に比べたらほんの些細なことにすぎません。あしたになれば忘れておしまいになるでしょう。
影山:今あなたの心が喋っている。怒りと嘆きの満ち汐のなかで、あなたの心が喋っている。あなたは心というものが、自分一人にしか備わっていないと思っている。
朝子:結婚以来今はじめて、あなたは正直な私をごらんになっていらっしゃるのね。
影山:この結婚はあなたにとっては政治だったと云うわけだね。
朝子:そう申しましょう。お似合いの夫婦でございましたわ。実にお似合いの…。でも良いことは永く続きませんのね。今日限りおいとまをいただきます。
(中略)
影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやって来る。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。
朝子:一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません、
影山:隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。
朝子:世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい。
影山:だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ。
朝子:それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ。

明治時代、それまで着物に髪結いをしていた習慣を打ち捨て、ドレスに身を包んで宝石で着飾り、慣れないワルツを踊る。
まるで早く一人前の扱いを受けたいと背伸びする子どものように、西洋諸国の仲間入りをせんと身の丈を超えた涙ぐましい頑張りを続けていた日本。
どんなに馬鹿馬鹿しいと思おうとも、本音を隠す仮面をかぶって、自らの理想を演じ続ける…。
そうした国の有様が、美しく象徴的に描かれた場面です。
迎賓館赤坂離宮を見て感じたもやもやは、まさにここに描かれていることでした。

全編にわたって、美しく格調の高い台詞ばかりなのですが、幕切れ前、影山夫妻が結婚してはじめて、お互いに本音をぶつけ合う場面は、とくに三島らしさが充溢していて、三島好きとしてはたまりません。

普段は政治家として、人を騙すことを自分の仕事と心得ている影山伯爵、その彼が妻である朝子に対する愛を素直に打ち明けています。
しかし、普段、偽りが大嫌いで誠実な人と言われている朝子は、彼の言葉を信じず、「あなたらしくない」とばっさり切り捨てます。
彼女にとって、影山との結婚は自分の本当の気持ちを騙しながらの生活、影山の言葉を借りるなら「彼女にとっての政治」だったのです。

彼の作品は「きれいはきたない、きたないはきれい」(by シェイクスピア)の言葉どおり、価値観がくるっと入れ替わる、聖が俗であり俗が聖というような二律背反の世界をよく取り上げているのですが、『鹿鳴館』はそれが美しく表現された傑作だと思います。

鹿鳴館 (新潮文庫)

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